静かに秋が深まっていく。朝夕は涼しいというより寒さを感じる。夏の草花も冬支度を始めたようだ。そんな秋。秋かあーーーー。ここ二週間の間に悲しいことが二つあった。一つはボスが病で倒れたこと。その後、何の連絡も無いから、まだ息はしているのだろう。強い生命力で復活してもらいたい。今は、そう願うだけだ。
もう一つの悲しい出来事は、よく知っている家庭の娘さんが急逝した。27歳の若さである。「えっつ、どうして、また 何故?」と耳を疑った。我が家にも何度か来たことがあるきれいな娘さんだった。ただただ、人の世のはかなさを思う。その娘さんが以前、だれぞやの葬式の時言っていたそうだ。「あんなに遺族が泣き悲しんだら、死んだ人も安心してあの世にいけないよねーーー」っと。その娘さんの言葉を思い出したかのように、父親も母親も、葬式の時、涙を見せていなかった。心の内はどんなにか辛かっただろうに、娘を安心させて旅立たせてあげたいと願ったからだろう。
人は死してどこへ行くのだろうか?。古今東西、死を回避すべく、人間はあらゆる妙薬を探し求めた。又、宗教は死の恐怖をやわらげんと、さまざまな信仰を生み出した。先日、ラジオで聞いたが、猿は我が子が死んだことを理解できずに、ずっと抱いたまま、幾日も過ごすそうだ。やがて、肉体が腐り始め、やっと手から子供を離す。このことは猿の脳のなかには、死と言う概念がないのではないかと言っていた。悲しいかな、人間は死という概念を学習してしまった。そのことが、恐怖や悲しみを生み、宗教を育んだともいえる。
あの世があるにせよ、ないにせよ、ただ言えることは、柳澤桂子さんがその著書の中で述べておられたように、「空」の世界が真実の世界なのかもしれない。我々のこの肉体も原子で構成されていて、その原子は宇宙と一体である。我々や物質が形を成しているのは原子の密度の違い。濃淡の違いに過ぎない。物質はたえず 動き回り、絶えず変化している。生も死も原子レベルでは同じことの密度の違いに過ぎない。
そう考えると、死もいくぶんかは肯定できるような気がする。問題は、そこまで、心を浄化できるかどうかだ。欲と執着にまみれた僕には、到底、そこまで至れそうにない。もう少し齢を重ねてくると、あるいはそう考えることも出来るかもしれない。今は静かに故人の冥福を祈っている。
もう一つの悲しい出来事は、よく知っている家庭の娘さんが急逝した。27歳の若さである。「えっつ、どうして、また 何故?」と耳を疑った。我が家にも何度か来たことがあるきれいな娘さんだった。ただただ、人の世のはかなさを思う。その娘さんが以前、だれぞやの葬式の時言っていたそうだ。「あんなに遺族が泣き悲しんだら、死んだ人も安心してあの世にいけないよねーーー」っと。その娘さんの言葉を思い出したかのように、父親も母親も、葬式の時、涙を見せていなかった。心の内はどんなにか辛かっただろうに、娘を安心させて旅立たせてあげたいと願ったからだろう。
人は死してどこへ行くのだろうか?。古今東西、死を回避すべく、人間はあらゆる妙薬を探し求めた。又、宗教は死の恐怖をやわらげんと、さまざまな信仰を生み出した。先日、ラジオで聞いたが、猿は我が子が死んだことを理解できずに、ずっと抱いたまま、幾日も過ごすそうだ。やがて、肉体が腐り始め、やっと手から子供を離す。このことは猿の脳のなかには、死と言う概念がないのではないかと言っていた。悲しいかな、人間は死という概念を学習してしまった。そのことが、恐怖や悲しみを生み、宗教を育んだともいえる。
あの世があるにせよ、ないにせよ、ただ言えることは、柳澤桂子さんがその著書の中で述べておられたように、「空」の世界が真実の世界なのかもしれない。我々のこの肉体も原子で構成されていて、その原子は宇宙と一体である。我々や物質が形を成しているのは原子の密度の違い。濃淡の違いに過ぎない。物質はたえず 動き回り、絶えず変化している。生も死も原子レベルでは同じことの密度の違いに過ぎない。
そう考えると、死もいくぶんかは肯定できるような気がする。問題は、そこまで、心を浄化できるかどうかだ。欲と執着にまみれた僕には、到底、そこまで至れそうにない。もう少し齢を重ねてくると、あるいはそう考えることも出来るかもしれない。今は静かに故人の冥福を祈っている。
コメント