この頃、僕の日課と言えば、夕方、玄関横の草花達に水をやることだ。草花は、山の神が育てている。まだ、ばあ様が生きているころは口がすっぱくなるほど、目を三角にして、「水をやったかい?」と、山の神に言っていた。山の神は言われるままに、水をやっていた。習慣とは恐ろしいものだ。ばあ様の死後、山の神が見事に後継ぎをしている。僕には遠慮があったのだろう。一度も言われたことが無かった。僕も優しさが足りなかったようだ。頼まれないから水をやったことがない。
その水まきが僕の日課となった。理由はいかに?。何のことはない。山ノ神が一泊二日の小旅行で出かけたとき、夕方には、水をやるようにと、くれぐれも頼まれたからだ。いくら、不調法で能天気、ふうけもんの僕も、そこまで頼まれるのなら、いたし方が無いということで、きちんと水を与えた。
雑草刈はしても、花を育てる水まきには、とんと縁がなかった僕も、この炎天下だ。花のみならず、ついでに庭にもと、ホースを長く伸ばして噴水のごとくまき散らした。やってみると、これが気持いいんだよなーー。おまけだーーーーと言うことで、我が頭から水をかぶる始末。そんなことがあって、今はすっかり僕の仕事とあいなった。ほんまに習慣って恐ろしいものよ。
毎日、水をやって気がついたことがある。花も正直だ。精一杯、僕の方を向いて、水をおいしく飲む。朝になると、ぴんぴんとして、その可憐な姿を見せてくれる。生き物って可愛いぜ。その反面、猫の「もこ」ときたら、山の神にのみ、べったりとくっついて、僕の寵愛を受けようとしない。山の神に聞いたところ、「そりゃああ、ご飯を食べさせてくれる人が一番好きなのよ」と言う。
そんな「もこ」に、山の神の留守中、「えさ」を与えたところ、僕の足に擦り寄ってくるようになった。僕も幾ばくかの信頼関係を築いたかと思ったが、山の神が帰ってくると、僕の寵愛は必要なさそうだ。また以前と同じような状況に逆もどり。やはり、猫も知っているようだ。「ご主人様はわての事を嫌いなようだ」と。「わてのご主人様は山の神である」と。現金なやつだと思うが仕方がない。草花も同じなんだろう。可愛がってくれる人にみ、最高の美を演出してくれるのだ。
今は、すっかり草花が僕のいとしい恋人だ。何かの拍子に、心変わりが生じなければいいのだが・・・・。「花と叔父さん」という歌があった。まさに、僕は今、その叔父さんだ。
http://mirunmirun.hp.gaiax.com/
その水まきが僕の日課となった。理由はいかに?。何のことはない。山ノ神が一泊二日の小旅行で出かけたとき、夕方には、水をやるようにと、くれぐれも頼まれたからだ。いくら、不調法で能天気、ふうけもんの僕も、そこまで頼まれるのなら、いたし方が無いということで、きちんと水を与えた。
雑草刈はしても、花を育てる水まきには、とんと縁がなかった僕も、この炎天下だ。花のみならず、ついでに庭にもと、ホースを長く伸ばして噴水のごとくまき散らした。やってみると、これが気持いいんだよなーー。おまけだーーーーと言うことで、我が頭から水をかぶる始末。そんなことがあって、今はすっかり僕の仕事とあいなった。ほんまに習慣って恐ろしいものよ。
毎日、水をやって気がついたことがある。花も正直だ。精一杯、僕の方を向いて、水をおいしく飲む。朝になると、ぴんぴんとして、その可憐な姿を見せてくれる。生き物って可愛いぜ。その反面、猫の「もこ」ときたら、山の神にのみ、べったりとくっついて、僕の寵愛を受けようとしない。山の神に聞いたところ、「そりゃああ、ご飯を食べさせてくれる人が一番好きなのよ」と言う。
そんな「もこ」に、山の神の留守中、「えさ」を与えたところ、僕の足に擦り寄ってくるようになった。僕も幾ばくかの信頼関係を築いたかと思ったが、山の神が帰ってくると、僕の寵愛は必要なさそうだ。また以前と同じような状況に逆もどり。やはり、猫も知っているようだ。「ご主人様はわての事を嫌いなようだ」と。「わてのご主人様は山の神である」と。現金なやつだと思うが仕方がない。草花も同じなんだろう。可愛がってくれる人にみ、最高の美を演出してくれるのだ。
今は、すっかり草花が僕のいとしい恋人だ。何かの拍子に、心変わりが生じなければいいのだが・・・・。「花と叔父さん」という歌があった。まさに、僕は今、その叔父さんだ。
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