詩に内在する生と死。
2005年5月30日 日常最近、ポイムというか、詩に対する興味が復活したようだ。
思えば、若かりし頃、ゲーテ、ハイネ、ヘルマンヘッセなどの詩を紐解き、愛しい人へのラブレターとして、したためたものだ。詩の鑑賞というより、わが心を伝える、「あて」、「だし」として利用していた。詩の本質、本意など、まるで分かっちゃいなかった。
女性から、「あなたはロマンチストね」という言葉は返ってきても、成功に至るためしは無かった。それもそうだろう。人の言った言葉の受け売りでは、良識アル女性なら誰もが、そっぽを向くのがおちだ。女性の心琴が震えるわけもない。僕も若かったぜ・・・当時は。今も若いつもりだがーー。やはり、詩を書くことは下手ではあっても、自ら手を下さなくては心なんて伝わらない。
以来、詩で人の心を動かそうなんて、大それたことは止めた。その僕が詩みたいなものも読んだり、書きたくなったから不思議だ。いくつか理由がある。日記と言うか、備忘録と言うか、文章で書いていると冗長になる。詩みたいに、言葉を厳選して短く書いても、意は十分、伝えられるし、後々、読んでも分かるだろう。そう思ったことが一つ。と、色んな人が書いている詩を垣間見たとき、幾たびか衝撃を受けたことがあったからだ。
どんな詩にも、生への執着と死への恐怖が内在しているように思える。作者以上には真意を理解できなくても、なんとなく言葉の威力に圧倒されるのだ。おめでたい僕は、「ひょっとすると、これは僕のことでは?」と、大きな勘違いをすることもある。やはり、生と死が深く内在しているからこそ、わが事として、考えてしまうのだろう。
集団で自殺する人が後をたたない。何故だろう。一元的世界から見ると、生も死も同じこと。単なる原子の濃淡の違いだ。ただ、そう考えるに至るには執着をなくさねばならない。神、仏でもない我々にそれが出来るのだろうか?。
否である。しからば、執着を持って、生きることに専念しなくてはなるまい。死への恐怖心、大いに結構ではないか。僕は思っている。お迎えがくるまでは、ひたすら生きてやるぞ・・・って。
卑近な話だが、よく、男性用トイレに、「ちょっと待て。もう一歩前へ」とかなんとか書いてある。失礼な張り紙だぜと思うが、人生も同じことだ。死のうと思う前に、「ちょっと待て。まだ早い」と、どうして思えないのだろうか?。諦念の気持は、お迎えが来たときで十分だ。執着も度が過ぎると、悪になるかもしれないが、人間は適当に執着をもたなくちゃ。
かくして、僕が再び詩に目覚めたのは、これも執着である。今更、絶世の美女に思いのたけを伝えようとは思わない。生きている証として、はたまた、死の恐怖を払拭せんがために、時々詩の世界に身を投じたいと思うだけである。
ある坊さんに聞いたことがある。「座禅は安楽の法門」であると。僕に言わせれば、こうなる。「詩は生死の法門である」と。だから、詩を読み、書くわけだ。
なんか、自分でも何を言っているのか分からなくなった。こういう時こそ、詩的に表現すべきだったか?。
http://mirunmirun.hp.gaiax.com/
思えば、若かりし頃、ゲーテ、ハイネ、ヘルマンヘッセなどの詩を紐解き、愛しい人へのラブレターとして、したためたものだ。詩の鑑賞というより、わが心を伝える、「あて」、「だし」として利用していた。詩の本質、本意など、まるで分かっちゃいなかった。
女性から、「あなたはロマンチストね」という言葉は返ってきても、成功に至るためしは無かった。それもそうだろう。人の言った言葉の受け売りでは、良識アル女性なら誰もが、そっぽを向くのがおちだ。女性の心琴が震えるわけもない。僕も若かったぜ・・・当時は。今も若いつもりだがーー。やはり、詩を書くことは下手ではあっても、自ら手を下さなくては心なんて伝わらない。
以来、詩で人の心を動かそうなんて、大それたことは止めた。その僕が詩みたいなものも読んだり、書きたくなったから不思議だ。いくつか理由がある。日記と言うか、備忘録と言うか、文章で書いていると冗長になる。詩みたいに、言葉を厳選して短く書いても、意は十分、伝えられるし、後々、読んでも分かるだろう。そう思ったことが一つ。と、色んな人が書いている詩を垣間見たとき、幾たびか衝撃を受けたことがあったからだ。
どんな詩にも、生への執着と死への恐怖が内在しているように思える。作者以上には真意を理解できなくても、なんとなく言葉の威力に圧倒されるのだ。おめでたい僕は、「ひょっとすると、これは僕のことでは?」と、大きな勘違いをすることもある。やはり、生と死が深く内在しているからこそ、わが事として、考えてしまうのだろう。
集団で自殺する人が後をたたない。何故だろう。一元的世界から見ると、生も死も同じこと。単なる原子の濃淡の違いだ。ただ、そう考えるに至るには執着をなくさねばならない。神、仏でもない我々にそれが出来るのだろうか?。
否である。しからば、執着を持って、生きることに専念しなくてはなるまい。死への恐怖心、大いに結構ではないか。僕は思っている。お迎えがくるまでは、ひたすら生きてやるぞ・・・って。
卑近な話だが、よく、男性用トイレに、「ちょっと待て。もう一歩前へ」とかなんとか書いてある。失礼な張り紙だぜと思うが、人生も同じことだ。死のうと思う前に、「ちょっと待て。まだ早い」と、どうして思えないのだろうか?。諦念の気持は、お迎えが来たときで十分だ。執着も度が過ぎると、悪になるかもしれないが、人間は適当に執着をもたなくちゃ。
かくして、僕が再び詩に目覚めたのは、これも執着である。今更、絶世の美女に思いのたけを伝えようとは思わない。生きている証として、はたまた、死の恐怖を払拭せんがために、時々詩の世界に身を投じたいと思うだけである。
ある坊さんに聞いたことがある。「座禅は安楽の法門」であると。僕に言わせれば、こうなる。「詩は生死の法門である」と。だから、詩を読み、書くわけだ。
なんか、自分でも何を言っているのか分からなくなった。こういう時こそ、詩的に表現すべきだったか?。
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