一元的物の見方。

2005年5月3日
すこぶる良い天気とは今日のような日を言うのだろう。五月の風を背に、午前中に一仕事。午後に一仕事を終えた。仕事の成否はクライアントの満足度が目安になる。今日は大成功だぜ。思わぬご褒美があった。

とは言え、仕事を終えた後はさすがに外出する気になれない。ストレスはなくても、疲れはある。おっと、これは間違いか?。疲れがストレスであり、ストレスが疲れなのでは?。まあ、どちらでもいいか?。

刹那の時間、仮眠をした。これがいいんだよなー。パッチリとお目覚め。六時に夕食をとった。習慣とは恐ろしいものだ。我が家は決まって六時に夕食だ。山の神の鶴の一声で、「わおーーー、もう夕食か?」ということになる。さあ、今宵も長いぜ。何して遊ぶかな?。

ところで、最近、「生きて死ぬ知恵」という本を買った。駅の中の本屋に寄ったとき、題名の本を何気なく取り上げて立ち読みをした。体にビビッツと来るものを感じた。かの有名な「般若心経」というお経が、詩的に、分かりやすく解説してある。柳澤桂子と言う人が著者である。「般若心経」も色んな解説本が出ているが、なかなか難解である。

人一倍背伸びしたがる頃、哲学書とか、こういった部類の本を結構読んだ。実際は何も分かっちゃいなかった。ただ、今回は違った。著者が書いている「あとがき」を読んだ時、「そうか、そうなんだ。そうだったのか。」と、妙に納得するものを感じた。

著者は書いている。「赤ちゃんが生まれたとき、母親のお腹に乗せてやると、一人で乳首に到達する。本能的に自己と他者を区別している。この傾向はどんどん強くなり、自己と他者という二元的な考え方に深入りしていく。二元的な見方をすることによって、執着や欲が生まれる」と。

しからば一元的に物を見るとどうなるのか?。著者は続ける。「我々は原子から成り立っている。原子は動き回っているから物質の世界が成り立つ。宇宙のレベルから、この原子を見たとき、原子の密度に違いがある。これが宇宙を一元的に見たときの景色である。」と。

「あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。一元的な世界こそが真実で、私達は錯覚を起こしているのです。宇宙の真実に目覚めた人は、物事に執着することがなくなり、何事も淡々と受け入れることが出来るようになります」と。

これが、お釈迦様の悟られた境地であり、般若心経の真髄なのかもしれない。昔、友達と議論した時など、「色即是空、空即是色の世界だよ」とか何とか言って、したり顔をしていた。今、思うと、何にも分かっていなかった。分かっちゃいないことすら分かっていなかった。もちろん、今でもそうかもしれない。ただ、この本に触れた時、何となく、「いや、まてよーー」と思えるようになった。この本の題名にある、「生きて死ぬ知恵」とは、すなわち、生も死も一元的に見れば、一緒であり、あってないのに等しい。動き回る原子の濃淡の違いと言うことになるのだろう?。そのように考えれば死も怖くはないわけか?。いやーーーーー、まだ怖いぜ。

如何せん。日々、欲の権化として、利のみを追求するようになった僕に、欲やら執着を捨てることができるだろうか?。二元的世界にどっぷりと浸かってしまった今、否だろう。否かもしれないが、いつか、著者の語った言葉に、深く共鳴する時がくるかもしれない。その時が僕の死であり、また生なのかもしれない。

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